シュトーレン

 

 

*注意

どこにもいけなかった自作小説です。

苦手な方は全力で回避してください。

そのうち消します。

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 「シュトーレンて、知らん?」

シュトーレン?」

「なんか、パンみたいなやつ。ケーキとはちょっと違うんやけど」

「知らんね。甘いん?」

「いろいろ入ってて。ドライフルーツとか。ドイツかどっかのお菓子で、クリスマスまでに、すこぉしずつ切って、食べてくんて。ちまちま」

ちまちま、という言葉が心地よくて、私もついちまちま、と繰り返した。彼の目が嬉しそうに細まる。そう、ちまちま、と嬉しそうに反復した。

「あれ、高いんやけど、美味しくって。よかったら一緒に食べん?」

「食べる」

即答すると、彼は無邪気に満面の笑みを浮かべて頷いた。どこに売っとるんと聞くと、知らん、パン屋とかじゃない?と適当な返事で、私は探すのが億劫だからとインターネットで北海道の二千円くらいするシュトーレンを購入した。彼は値段に目を丸くしていた。私が折角だし美味しいものが食べたいの、と言うと、らしいわ、と、なんだか微笑んだ。

すべてが温もりに満ちていた、あの空間で。

 

 あれはもうずいぶんと前の話になるのか。

ふとスーパーで見かけたシュトーレンが海馬に直撃。思い出が洪水のようにあふれ出て、私は溺れて窒息しかけた。私の思考が今の私を外れて過去へ飛ぶ。望んでなんかいないのに。

 すっかり忘れていた。本当にたった今思い出した。シュトーレン。甘くて舌の上でしゅるしゅると溶けていくような感触。思っていたより固くて、切るとき少し笑ってしまった。美味しいから食べ過ぎないようにと薄く切って、でも美味しいからと2枚食べてしまう、そういう日々だった。ああやって少しずつ時を食べてゆくのはひどく幸せだった。

 

 彼にとっては、そうじゃなかったとしても。

 

 シュトーレンを手に取ると、ずっしりと重たかった。そう、この重さ。パンのような軽やかさと違う、このみっしりとした重さ。これを私は好きだった。少し買おうか迷って、財布の中に600円しかないのを思い出す。ああ、これでは買えないな。そっと箱に戻した。次にお金をおろした時に買おう。また今度。

 

 スーパーを出るとすっかり暗くなっていた。午後7時、家族連れやおじいちゃんおばあちゃんが買い物袋を持って夜道をまっすぐ歩いてゆく。車のライトはきらきら光り、夜でも明るさが絶えない。人の声がたくさん集まると、それは「日常の音」になる。それは会話ではなく、例えば鳥の声とか川のせせらぎみたいなものだ。あって、当たり前で、安心する。煩わしくない。ここはそうあるべき場所だ、という気がして安堵する。

 

 たくさんの日常を横目に、一人買ったばかりの重たい荷物を抱えててこてこ歩く。息はまだ白くないから、指先がちょっと冷えるけど不快になりすぎない。久々に履いたブーツがかつかつとアスファルトにぶつかる音が耳に心地いい。「俺、ヒール音好きやねん」。歌うような彼の声がよみがえって、口の中が少し苦くなった。

 

 シュトーレン、みたいな日々を重ねていた。いつかなくなるとわかっていて、少しずつ薄く切って口に入れていくような、消費していくような日々だった。彼には、私のほかに好きな人がいた。私よりずっとずっときれいで優しく、才能のあるひと。私はその人が嫌いだった。妬ましくて羨ましくて嫌いだった。でも嫌いというより、やっぱり、憧れで、羨ましかった。ただただ嫉妬していた。彼と一緒にいればいるほど、彼がその人を好きだってことがわかってしまってどうしようもなくて、でもこうしてそばにいられるならそれでいいと本気で思っていた。時々厚く切って幸福を味わった。クリスマスには思ってよりも余っていて、2人でにこにこしながら食べた。美味しかった。美味しいものには幸せがつまっている。

「ほんまに美味しそうに食べるよな」

「本当においしいからね」

そういう何気ないやりとりに、ふっと涙が出そうなほど幸せで満ちていたから。

 

 スーパーを少し離れ、すっかり廃れた商店街へと足を向ける。今までここに存在していた人々の営みが、すべてあそこにぎゅっと凝縮されてしまったのだと思うとほんのり寂しく、あそこがまるで箱庭のように思えてくる。それぞれがそれぞれの箱庭へと赴き、帰り、道はただの道となる。過程を大切にしているようなこの商店街というものが、私はとても好きだったのだけれど。今、道はただの道でしかない。

 そう。過程がどうであれ結果が悪ければすべて悪くなってしまうようなあのやるせない感覚が嫌いだった。結局、見事に私はふられてしまったのだ。たくさん愛して、たくさん尽くしたけれど、そこに存在しているだけの彼女に私は負けた。私の努力など、彼女という存在自体には何ひとつ勝てはしなかったのだった。人の心って薄情だ。ままならなくて切ない。だったらちゃんと最初から断ってよ、と私は叫びたかった。そして愕然とした。私は彼と一緒にいられることが幸福だと思っていたけれど、本当はそうじゃなかったのだ。私は彼が欲しかった。すっかり食べてしまいたかったのだ。

 

 そういう経験を経て、彼と別れた後も、1年くらい彼女と同じ場所で時間を共有して、嫉妬と劣等感で気が狂わんばかりになって。そこから抜け出した今でも、不意に自己嫌悪に陥ることがままあった。彼への恋心が絶えても、彼との思い出が薄れても、嫉妬心と劣等感は燃え盛り続けている。難儀だ。消化不良のものをいつまでも腹に抱えているよに気持ちが悪い。美味しくないものを飲み込んだんだから当たり前だ。でも吐き出すわけにもいかない。私が食べたのだから、消化して、吸収して、私の一部になるまで待つしかない。

痛みを飲み込んで、ぎゅっとつぶす。彼女の顔、彼の顔、過去、確執、私の海に流れ込んできたすべてを一つずつつぶしていく。嫌い、きらい、嫌い、いなくなってしまえ。でも本当に嫌いなのは、私自身。嫌いなのは、私自身なのだ。

 

 私が本当に欲しかったのは。

 

 電池が切れたみたいに足が止まった。家まであと5分もない。でも踵を返す。私はこれからシュトーレンを買いに行くのだ。あの甘さ。あの、ちょっとずつ、ちょっとずつ、毎日少しずつ自分へご褒美を与えるかのような日々。頑張ったら頑張っただけ愛されるとかたくなに信じ続けたあの日々。記憶のずっしりつまった思い出の食べ物。重たいのだ。時間をかけて食べるものだから。傷まないようにしてあるのだから。すっかり食べきってしまおう。噛んで、砕いて、飲み込んで、私の一部にしてしまうのだ。

そして、新しい年を迎える。

 

 音が響く。軽やかな音。そして近づいてくる明るさと喧騒。洪水が起こった後のぐちゃぐちゃの心を丁寧にひとつずつ片付け、乾かす。すべてが元通りにはならないけれど、でもシュトーレンは美味しいのだ。溺れた苦しみを味わっても、吐きそうな痛みをお腹に収めても、今が過去を押しやってしまっても、それだけは忘れたくない。

 

 クリスマスまでちまちまと、思い出を消費していこう。彼はもういない。彼女ももういない。このやるせなさはどこにもいけない。でもここにはシュトーレンがある。そういうことだ。私にはあるものしかない。私の手に入るものはすべていつかなくなってしまう。それでもいい。何度でもシュトーレンを買おう。いつか本当に欲しいものがわかるまで、何度でも。何度でも。

 

 230gの日々。

私の幸せはここにある。